2018年08月24日

愛宕神社(池田)

昔の京都の町家の展示を見ると、「火迺要慎(火の用心)」と書かれた愛宕(あたご)神社の御札が厨房の上方に貼ってあるのが定番になっている。今でも古めかしい食堂で見ることが多いから、かなり普及した習慣だったらしい。

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家屋が木造だけの時代、特にそれが密集していた都市に住む人々にとって火難除けは一大事である。「火の用心」なんか自分で書いて貼っても同じだろうと割り切れる人ばかりではない。火災予防に霊験ありという愛宕信仰は、近畿を中心に全国に広まった。

総本社である京都・愛宕山(あたごやま)の愛宕神社は、8世紀に光仁天皇の勅命で和気清麻呂が愛宕大権現(あたごだいごんげん)という神を勧請したのが始まりである。愛宕大権現は勝軍地蔵という軍神としての地蔵菩薩の化身とされる。だから、江戸時代までは神仏習合だった。山岳信仰とも結びつき、修験道の色も濃かったようである。天台宗4院、天台・真言兼宗2院の僧侶と山伏の共同管理だったというから、天台系が強かったのか。

近郊の池田にもこの信仰は伝わったが、伝えたのは天台宗系(本山派)と真言宗系(当山派)の山伏で、双方勢力争いをしていた。

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彼らの仲たがいに池田の酒造業者間の紛争が結びつき、真言宗系の山伏に味方した零細の造り酒屋四人(多田屋・板屋・中村屋・丸屋)が、1644年に池田の五月山山上で竹に火をともして、「京都の愛宕の火が池田に来た」という流言を広めさせた。それで、神社を建立し愛宕火(あたごび)という祭礼を行うようになったのが、今日まで続く池田の愛宕神社と「がんがら火祭り」の始まりである(がんがら火保存会 n.d., 池田大好き2016)。

かつては池田の愛宕神社に河内の愛宕講からも参拝者があったという(池田市史編纂委員会 1998:178)。それだったら京都まで行けばいいのにと思うが、やはり池田に行く方が楽だったのだろう。

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手軽に行ける五月山の新愛宕が繁盛したので、京都の愛宕神社からは抗議が来た。が、箕面の勝尾寺宝泉院が京都所司代にはたらきかけて和解を果たす。その後、この新しい愛宕は勝尾寺宝泉院と高法寺の支配を受けるようになった(がんがら火保存会 n.d.)。勝尾寺も高法寺も真言宗である。

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さらに、高法寺はかつて地域の会所としての機能があり、そこに集まる庄屋衆が愛宕神社の権利の一部を獲得し、17世紀末には愛宕神社は池田の町全体が管理する形となった(Ibid)。

酒造業者の流言のことなどの経緯が記されたのは、1727年頃作成された伊居太神社の「穴織宮拾要記」(Ibid)。記録まで時間が空いてはいるが(1644→1727)、神社の創建が特定の立場の人々の特定の利益関心と関わっていることは当時から知られたことだったのだろう。それでも、信仰としてちゃんと成立するわけである。

後、火災除けの神様としては宝塚の清荒神が流行して、個人として清荒神の御札を厨房に祭る向きもあったらしい。しかし、本百姓の身分を持つ者全員が愛宕講に参加していたという(池田市史編纂委員会 1998:62)。

もうこうなると、ご利益を信じるとか信じないとか関係なくなってしまう。例え、別の神様の方がいいと思っても、火伏の御札なんか自分で「火の用心」と書いても同じじゃないかと思っても、地域的なしがらみで神社が存続するシステムが出来上がっているのが面白い。

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現在の池田の愛宕神社には、神仏分離以前の修験道とのしがらみもしっかりと残っており、不動明王や修験道の祖である役行者が祭られ、大峰入りを記念する山伏の塔も建てられている。

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愛宕の本地は地蔵とされるので、今日でも両者の縁日は同じ24日である。「がんがら火祭り」は毎年8月24日に行われるが、池田市内の地蔵盆も、おおむねこの辺りに行われるようだ。

参考文献
がんがら火保存会 n.d.「がんがら火の歴史」『大阪池田のがんがら火 公式ホームページ』
http://www.gangara.gr.jp/history.html
池田大好き 2016 「池田「がんがら火」と造り酒屋」(2016年1月27日水曜日)『北摂池田の郷土研究』
http://osaka-ikeda.blogspot.com/2016/01/blog-post_76.html
池田市史編纂委員会 1998『新修池田市史』第5巻民俗巻 池田市

*愛宕神社(池田)
神道
〒563-0051 大阪府池田市綾羽2−20
072-751-1019
(阪急「池田」下車。北方の五月山の山上。徒歩20分ほど。)
管理人の訪問日:2016年7月3日
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2018年08月23日

出合地蔵石仏(東大阪)

地蔵堂と見てのぞいて見ると、地蔵以外のものが祭られていることがある。そうすると「ああ、しらす干しの中にタコやイカを見つけたようだ」と思えて、楽しい。

大日如来と地蔵菩薩が同居している祠は京都でたまに見るが、阿弥陀如来と地蔵菩薩が肩を並べている辻堂は初めてだった。板状の岩にレリーフ状に二尊が彫られている。瓢箪山稲荷の近くである。

お堂の脇に東大阪市の建てた説明書きがあり、もともと花崗岩の岩壁に彫られた摩崖仏を移してきたとの由。室町時代に流行した形とのことで、これは南北朝時代のものらしい。

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で、今でも地蔵盆に活躍している。

*出合地蔵石仏(東大阪)
仏教
〒579-8053 大阪府東大阪市四条町17
(近鉄「瓢箪山」南東。安養寺を北上。)
管理人の訪問日:2018年8月22日
ラベル:大阪 日本 仏教
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2018年08月16日

京都霊山護国神社

元伊勢とか元春日とか、神社には「元何々」というのが多い。有名な大社のルーツとされる神社が、自らの由緒を主張する際の宣伝的な表現である。

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それなら京都東山の「京都霊山護国神社」は「元靖国」と名乗る資格がありそうだが、今のところそれはやっていない。

靖国神社も全国各地の護国神社も、もとは「招魂社」と呼ばれていた。招魂社というのは幕末明治にかけて、明治国家建設のために死んだ人々を殉国者として慰霊するための神社である。もともと各藩が設けたもので複数あったが、明治新政府の命令で出来たのは1868年の京都の「霊山官祭招魂社」が最初。翌年「東京招魂社」ができる。それぞれ、後に「京都霊山護国神社」、「靖国神社」と改称する。

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京都の護国神社も護国神社なのであるから、まあ靖国神社と基本的趣旨は同じはずである。実際、まあなんというかライトでミリタリーなアトモスフィア―が濃厚。靖国同様、幕末の志士や日清・日露以降の戦争殉難者を祭神としている。

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ただ、何かちょっと雰囲気が違う部分もある。

まず、立地がとてもよろしい。八坂神社、高台寺から流れた観光客がやって来る。

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それから、何といっても祭神の一人である坂本龍馬。これを妙に喧伝しており、神社までの道々これをベースに宣伝している。

又、金をとって見せている部分、「旧霊山官修墳墓」は個人名の分かる墳墓で、やはり一つの社殿にどっさり何百万も一緒に祀られているのとはわけが違う。(逆に数があまりに多くなってくるとこういうことは出来ないと思う。)

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ここの看板も「坂本龍馬と中岡慎太郎の墓はこちら」みたいな書き方をしているから巧妙だ(この二人だけじゃないのだけど)。この二人だけ別格で、銅像まで建てられている。

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維新の志士1356名。池田屋騒動とか禁門の変で亡くなった人など。見晴らしのいい所に膨大な墓碑を建てられるとなかなか壮絶なものがある。

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幕末ファンらしき人がかなり来ている。その中の男の人が「誰それは女装が好きで」云々と蘊蓄を熱心に語るのを、横にいた彼女が「へー」とか言って聞いていた。東京弁である。

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私も心の中で「へー」と思いつつ歴史ロマンに浸っていると、自衛隊の墓が目に入り、いきなり現代に引き戻された。

*京都霊山護国神社
神道
〒605-0861 京都府京都市東山区清閑寺霊山町1
075-561-7124
(JR京都駅、京阪四条駅、阪急河原町駅より市バス祇園方面「東山安井」下車徒歩10分。安井神社から東大路通を挟んで真向かいの大鳥居をくぐり、「維新の道」を東へ直進する。)
管理人の訪問日:2016年9月24日
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