2019年05月13日

善想寺

非公開文化財特別公開で、四条大宮近くの善想寺という浄土宗寺院に行ったら、やたらと「皇室とのゆかり」と「神仏習合」とを強調しているので面白いと思った。

善想寺2.jpg


まず、本堂本尊の阿弥陀如来からして、仏像の前に神鏡が祀られている。寺ではこれを皇族が阿弥陀如来を祀ることを表している、と説明している。

神仏習合において阿弥陀如来がアマテラスオオミカミ(天照大御神)と同体とされることがあるから、神鏡もこれを表現しているのか。神仏習合を通じて、仏教と皇室の権威がつながる。

(ちなみに、私は神仏習合が大好きだけれど、「神仏習合は日本人の宗教的寛容性の発露だ」というもの言いは大嫌いである。どうでもいいが。)

他にもこの寺が上皇の御所の跡地に建立されていること、皇族造立の石仏があること、本堂に菊の御紋があしらわれていること、等が強調される。(葵の御紋もあったから、よほど権力に取り入るのが上手だったと見える)

善想寺1.jpg


ここには「体制に抑圧されていた鎌倉新仏教」のイメージは皆無である。

寺でもらったリーフレットの「建永の法難」に言及されている箇所を見ると、「(法然上人は)既成教団の圧力などから、弟子のある過ちにより法然上人は僧の資格をはく奪され、流罪となり、、、」と書かれている。

哲学の道沿いにある安楽寺(浄土宗単立)では、後鳥羽上皇の女官を出家させて死刑になった住蓮と安楽は殉教者扱いされていたが、この善想寺ではあくまで住蓮と安楽が「過ち」を犯したという扱いになっているわけだ。法然を流罪にした後鳥羽上皇の名前は出て来ない。

http://gompa.seesaa.net/article/465632465.html

日本は超越的、絶対的なものに対する感覚が鈍いけれど、かといって合理主義的な世俗社会でもない。「宗教」という文言は敬遠される一方で、伝統とか世間のしがらみとかいう類は好む人が多い。

「宗教」と名指される日本仏教も、むしろ伝統とか世間のしがらみとかの方を大切にしているようだ。「阿弥陀如来による救済」を語り、超越的、絶対的なものを志向しているように見える浄土系教団も例外ではない。

例外ではないが、善想寺は些か極端である。そこが面白いと思う。

*善想寺
仏教 浄土宗
〒604-8336 京都府京都市中京区三条大宮町240
075-841-1658
(阪急「大宮」駅下車。徒歩7分ほど。大宮通北上、大宮六角郵便局で左折、六角通を少し西進した所)
管理人の訪問日:2019年3月2日
posted by HIRO at 21:31| Comment(0) | 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする