2014年08月15日

人民英雄紀念碑

天安門広場は、いつ行っても地方から来た「お上りさん」でごったがえしている。「写真屋」がうろついているということは、北京や上海でもはや当たり前になったデジカメやスマホを持っていない人がいっぱいいるということだ。少数民族の衣装を着た人も散見する。

DSCN2496.jpg


このような人たちが、広場で「人民英雄紀念碑」を見上げることになる。

人民英雄紀念碑は、1840年のアヘン戦争以来、近現代史上の「革命烈士」を記念するために造られた。国家的慰霊のためのモニュメントである。

「革命烈士」の中にはもちろん日本の侵略に抗して死んだ人も入っているわけだが、日本との因縁は、それ以外にもある。

中曽根康弘は首相時代に靖国神社に参拝した。その関係で、中曽根と仲のよかった胡耀邦が中国共産党内部で批判される。胡を案じた中曽根は中国に特使を派遣し、この人民英雄紀念碑に献花させた(清水 2009:89)。

DSCN2498.jpg


靖国神社も、昔は「お上りさん」が必ず行くところだったというのは、演歌に歌われている通り。

中曽根の考えでは、この紀念碑は靖国神社に相当するものだったのか。

参考文献
清水美和 2009『「中国問題」の核心』ちくま新書.

*人民英雄紀念碑
中国北京市天安門広場
(地下鉄2号線「前門」下車すぐ)
管理人の訪問日:2014年3月21日
posted by HIRO at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

武廟遺址(南京)

昔の中国では、県ごとに「文廟」と「武廟」があったとのこと。「文廟」が孔子を祭った廟なのに対し、「武廟」は関帝を祭った廟である。

DSCN1420.jpg


南京の武廟は、今は「政治協商会議南京市委員会」が使っている。文化財保護のやり方として確実だろう。

*武廟遺址(南京)
江蘇省南京市北京東路43号
(バス1,3,31,15,48路等、「鶏鳴寺」)
管理人の訪問日:2013年8月24日
posted by HIRO at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月04日

岳王廟

日本人の友人二人に杭州の「岳王廟」を見せたら、ドン引きされた。

「人をほめるためじゃなくて、貶めるためのモニュメントというのはちょっと、、、」

DSCN0062 - コピー.jpg


この岳王廟に祭られているのは、宋の軍人、岳飛(1103-1141年)である。岳飛を「ほめる」ためのモニュメントだ。

岳飛が生きていた12世紀前半は、宋が華北を北方異民族(女真族)の金にとられた時代。宋の武将だった彼は自国の領土をとりかえすべく幾度となく金と戦って勝利を収めるが、和平派の宰相秦檜(しんかい)に無実の罪を着せられて投獄され、獄死した。

後世、岳飛が名誉回復した時に杭州の西湖湖畔に廟が建てられて顕彰された。西湖は有名な観光地だから、この廟もすごく立地がいい。私たちが行った時も多くの観光客でにぎわっていた。特ににぎわっていたのは、岳飛墓前の秦檜らの鉄像の辺りである。

そして、友人たちが引いてしまったのも、この秦檜らの鉄像である。

DSCN0063 - コピー.jpg


秦檜一党の像は檻に入れられ、後ろ手に縛られて、岳飛に跪いて許しを請う格好になっている。金との和平を進めた秦檜は、自らの栄達のために国を売った「奸臣」とされているのだ。

「(秦檜らの)像に痰を吐かないで下さい」という注意書きがあったということは、そういうことをする人がいるということだ。実際私たちも、そういう人を一人見た。(昔は小便をかける人もいたということだが、流石に今はいないだろう。)

「結局、国威発揚のためにやってるんでしょうね」

と友人たちは言ったが、そのような側面は強いであろう。愛国精神を鼓舞するためにこのような廟が存続しているのだ。

しかし、岳飛は現代中国政府にとって必ずしも好ましい存在ではないはずだ。彼は漢族の宋のために、女真族の金と戦争した。「民族団結」の必要が叫ばれる現在において、「政治的に正しい」人物とは言えない。

彼の詩「満江紅」というのは酷いもので「匈奴の血を飲んでやる」とか書いている。金国の女真族を、もっと昔の異民族である匈奴に例えているわけである。吸血鬼かっちゅうねん。

つまり、漢民族のエスノセントリズム(自民族中心主義)を代表するような人物である。

このあたり、廟内の「岳飛記念館」にあった説明書きは、すこぶる歯切れが悪い。岳飛は「金の圧政に苦しんだ漢族をはじめとする各族人民」のために戦ったことになっている。

それでもなお岳王廟は人気があるみたいだから、それだけ漢民族のエスノセントリズムが強いということなのか。

私もこの時ばかりは漢民族のメンタリティに嫌気がさしてしまった。

「これだから漢民族は、、、」

とはいえ、それからだいぶ経ってから、たまたま司馬遼太郎の『街道をゆく』にこの岳王廟のことが書いてあるのを見つけ、少なからず驚いた。

1980年代に杭州見物をした司馬遼太郎一行。西湖畔の岳王廟も訪れ、件の秦檜像も目にする。目にするのだが、その時の司馬の反応は私たちのそれと大きく異なっていた。

「中等東洋史の教科書に、この檻の秦檜の姿が写真としてかかげられていましたね」(司馬 2003:135)

あー、なつかしー!子どものころ教科書で見たことあるよ、これー!

え?日本人なのに?教科書で見たの?

司馬は戦前の中学校の歴史教科書で、秦檜のこの像を見ている、というのだ。それでも、他の日本人メンバーは「けげんな顔」をしたという。「他のひとびとは、軍国少年や少女の時代はあっても、こういう像を掲げるような「忠君愛国」の東洋史教科書を使う年齢に達することなく、敗戦をむかえたらしい。」(ibid)

司馬は1936年、日中戦争の前の年に中学校に入っている。

つまり、戦前の日本の価値観においても、秦檜のごとき「売国奴」は文字通り「唾棄」されるべき存在だ、と考えられていたわけだ。この種の考え方は決して中国の専売特許ではなかった。

また、司馬は、西郷隆盛が1873年に下野する際に、詩の中に岳飛のことを歌っていることを紹介する。

「忘義唱和平 秦檜多遺類 武公難再生 正邪今那定 後世必知清」(Ibid:140-141)

「義を忘れて和平を唱える秦檜の遺類」というのは、自分の「征韓論」に賛成しない「弱腰」の人々。「武公」は岳飛のことだが、この場合は隆盛自身をなぞらえているのだろう。

中国人の考えからすれば、日本の方が岳飛の敵である女真族、金の立ち位置だろう。実際、梅蘭芳は抗日戦争の時期に「抗金兵」という京劇を上演して日本を風刺した。しかし、征韓論を唱えた西郷隆盛は不遇をかこって岳飛(=武公)に感情移入したし、日本の軍国主義も「忠君愛国」を子供に教えるために岳飛の物語を利用した。

中国人の考え方は、中国人独自のものではない。日本人は、現在欧米のマネをしているように、かつては中国から学んだのだ。いい所も悪い所も。

中国の「周辺異民族」は、何かしらそういうところがあるのだろう。女真族の後裔である清朝の満州人も、岳飛を大変に持ち上げている。

ヌルハチは岳飛にあやかった名前を子孫につけているし、乾隆帝は岳王廟を何度も訪れて岳飛を賞賛する詩を残している(佚名 2011)。

もちろん、これは岳飛がエスノセントリズムを離れていた、ということを意味しない。岳飛の時代は「民族」という概念がなかったが、それでも「女真族は自分たちと異なる野蛮人で敵だ」という観念がなければ、「匈奴の血を飲んでやる」とか書かないから。

ただ、にもかかわらず、満州人でも日本人でも、その岳飛や岳飛の物語に感情移入できるのだということは覚えておいた方がよさそうだ。

周囲の国や異民族に対する敵意。その敵意を肯定するヒロイズム。和平を志向する「売国奴」に対する憎しみや攻撃、、、殺伐とした「正義」である。この点、中国人も日本人も同レベルだ。

そして、言うまでもなく、私のように「これだから漢民族は、、、」というのだって、エスノセントリズムに過ぎない。

参考文献
司馬遼太郎 2003『街道をゆく19 中国・江南のみち』朝日文庫
佚名 2011「努爾哈赤因仰慕岳飛 譲両個子孫改名為岳」『杭州日報』2011年11月25日
http://news.ifeng.com/history/zhongguogudaishi/detail_2011_11/25/10907550_0.shtml

*岳王廟
中国浙江省杭州市孤山路1号
0571-87969670
(バス7、15、27、28、81游1、2、3、4、5路「岳廟」)
管理人の訪問日:2009年3月29日
posted by HIRO at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする